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気づき

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稲村 健夫
共同創業者
イマココラボ共同代表
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#コンセプト

世界のとらえ方の違い

(A)と(B)では世界のとらえ方が違います。

(A)は主体者(自分)が対象物を見ています。そしてその対象物が何であるかを把握しています。


(B)は気づきが拡がっています。

(B)は主体者(自分)と対象物の関係性を含む全体に気づいています。
例えば自分がなにであるのか?や、どんな認知の世界に住んでいて、対象をどこに位置づけているのか、といった全体を見ています。 

(A)と(B)の違いは、単なる気づきの範囲の拡大というだけにとどまりません。
(B)のように主体者自身への気づき、世界のとらえ方自体への気づきがあるかどうかは気づきの大きな変質です。

そして(B)はどこまでも拡がり、深化し、多重に変化し続けます。

イマココラボのサービスは(B)の感覚を重視してデザインされています。

 

「予定調和」と「変質」

ふだん私たちが「わかった」ということの多くは、予定調和です。
自分自身がすでに生きている世界観・当たり前の中に、物事が収まっていきます。

例えばコンセプト1のところでも例に出した江戸時代の話でいえば、身分制度は当たり前。将軍がなくなれば血縁の男子が次の将軍になることは、自分の生きている世界観の中でごく当たり前に収まります。

また、もし許可なく(今でいう)他の県に移動したら、犯罪。これもごくごく当たり前。その禁を破った人が処刑されても何の不自然もなく、自分の世界観の中に収まっていきます。


先ほどの(A)の図は、こうした「予定調和の理解」を表しています。

それに対して(B)は「世界観自体の変質」を表しています。


自分自身がすでに生きている世界観・当たり前の中に物事が収まるのではなく、世界観や当たり前自身が変質する。


別の言葉でいえば、従来自分がどんな世界に住んでいたかを相対化して知っている、ということでもあります。

今の私たちにとって当たり前である「徳川幕府の不確かさ、奇異さ」は、当たり前の変質によってはじめて見えてきます。

例えば、幕末に「日本の統治者は本来天皇であって、将軍は天皇から任命された役職にすぎない」というアイディアが広く人に知られることになります。これによってはじめて、それまで絶対的で、すべての社会システムの基盤になっていた制度が、実は不確かで、奇異で、場合によっては拒否したり変えたりしうるものなのだ、という感覚がもたらされます。


さきほどのページでも書いたほうに、歴史の事例は理解しやすいので便宜上使っているにすぎません。

こうした当たり前の変質による可能性の拡がりは、今現在の私たちの目の前にも同じようにあるのです。

社会とは何なのか?
経済とは何なのか?
貨幣とは何なのか?
人間とは何なのか?
自分とはどういう存在なのか?

こんな風に無数に作れる問いに対して、無数の気づきの変質の可能性があります。

わたしたちはどこまで気づきを変質させていくことができるのでしょうか?